第42回全日本医師ソフトテニス大会(ひろしま)2004.10.10〜11
40回スポーツ医学研修会

                座長:秋本尚孝

演題:「ソフトテニスの歩み」

                            講師:広島文化クラブ 会長 手島 一夢

                                浄土真宗本願寺派光城寺 住職


 日本のソフトテニスの歴史、主に広島を中心にお話します。
 日本でソフトテニスが始められ今年で120年になります。日本ソフトテニス連盟は創立80年となりました。 テニスが日本に渡来したのは明治11年頃とされており、当時はボールを輸入に頼っており、あまり普及しなかったようです。明治23年になり三田ゴム会社(東京高師と東京高商の注文)でテニス用のゴムボールを作らせた。これが軟式庭球の発祥となり、わが国独特の競技として発展した。その後東京高師の卒業生が全国の学校に赴任して軟式庭球を指導した。

 広島師範では明治29年頃、矢ヶ崎・太田といった教官が放課後テニスを楽しんだと記録にあり、31年同校に赴任した鈴江団吉が熱心に指導した。やがて各中学に普及し相次いで庭球部ができた。女学校でも行われるようになり軟式庭球は女子のスポーツの先駆的な種目となった。

 広島で最初の大会は明治37年2月28日、広島高師の主催で行われた第1回連合庭球大会でした。この大会は春と秋に開催された。38年から始まった岡山六校主催の近県連合大会とともに初期の軟式庭球界の大きな刺激となり、社会人へと普及していった。明治の庭球には前後衛の別はなく、4人ともに後ろにさがって打ち合う形式が主流でした。大正7.8年までは中学校での活躍が主でしたが大正の前半頃から社会人の間でも盛んになった。

 大正10年代、広島の軟式庭球は隆盛期にはいった。広島での中心は長谷川喜八郎(広島中OB、東京高商)をリーダーとする広島OB、呉では呉工廠勢などが活躍した。又、女学校における軟式庭球も大正10年代に入って対外試合を行うようになった。
 広島OBのリーダーとして活躍した長谷川喜八郎(毎日新聞販売の店主)は、大正11年には、広島県少年大会を主催し、昭和2年には広島県団体対抗戦も開き、プレーヤーとしてまた指導者として、さらに軟式庭球の普及員として広島に多大な貢献をした。(軟式庭球王国広島の礎となる)
 
 昭和に入って活躍したのは、広島OBと、大正14年発足した呉庭球連盟である。また、戦前のメインエベントは中国オープンで、関西以西のチームが乗り込んできたが、優勝は広島と呉で分けていた。
 女子中等勢の活躍もめざましく、昭和3年から昭和8年にかけて広島市女、広島県女が活躍し、昭和15年の神宮大会では広島県女ペアが優勝。広島の女子軟式庭球会は全国のトップレベルにあった。
 
 また戦後昭和21年藤井(伊勢治)杯、25年井口杯、51年仁井岡杯、55年中杯、57年木本杯と個人の名が付く由緒ある大会が広島の軟式庭球を復興させるのに功績があった。昭和21年、広島県軟式庭球連盟が結成された。24年広島市で第3回マッカーサー杯大会が開かれ、又昭和26年呉市稲荷町コートで国体が開かれた。昭和30年代には、山陽、広島女商の高校勢を中心に広島の軟式庭球は男女共に全盛期を迎える。
 社会人の中心は電電中国(現NTT西日本)で、女子は39年から7連勝、全国女子実業団・団体戦、個人戦でも圧倒的な強さを示していて、男子も56年、58年全国実業団・団体戦に優勝している。

 中学の充実は高校にも影響が大きく、大いに軟式庭球王国広島を築く礎になりました。
 平成6年、広島市を中心にアジア競技大会が開催され、ソフトテニスの念願であった国際大会における初めての正式種目入りを果たした。この大会には広島より熊野・砂本組が参加し女子個人戦で優勝を飾っている。 このような輝かしい「ソフトテニス王国広島」が形成されたのも先達者の指導・努力、また市民や政治・経済の結集した賜物であると思われます。